めぐこの部屋へようこそ〜プロフィール〜

はじめまして、【めぐこの部屋】管理人のめぐこです。

ネットショップ運営していたり、デザイン系の仕事をちょいちょいしたり、健康マニアでもあります。多趣味すぎて器用貧乏です。

アメリカにもちょっとだけ住んでいました。

巷でよく聞くフリーランスに該当します。漢字で書くと個人事業主。

 

そんなアレコレを自分の内に秘めておくのは勿体ないのと、

老化現象。。。ではなく、齢を重ねるにつれ、物事のアレコレが頭の中に溜めこめなくなってきたので(苦笑)備忘録として、記録に残しておこうと思い立ったわけです。

記事自体は【雑記】ですけど。
宜しくお見知りおきのほど、お願いしますね。

 

そんなわけで、私という一人の人間がどのように形成されていったのか、自己紹介を兼ねて半生を振り返ってみたいと思います。多分長いよ!

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厳しくもある意味甘やかされて育った幼少期〜学生時代

私の人生、失敗ばかりであった。

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めぐこ、関東某県某市で爆誕。2019年でなんと爆誕40周年を迎えた。おめでとう、ありがとう両親&皆さん。

家族は旦那と可愛い猫たん。猫たん溺愛してますが、もう1匹お迎えしようか悩み中。。。

↑↑目つきが悪いわけではない。眠いのだよ

 

父はサラリーマンで母は日本舞踊を細々と教えている、普通の核家族で育った。

少し変わっていたところと言えば、やたらと最新のゲーム機やら機械やらパソコンやらが家にあったということだろうか。ファミコンは発売年のモノが未だに家にあるし、ちゃんとゲームもできる。

小学校〜中学校を市立の学校に通い、高校は県立の昔の女学校系の高校だったが、共学に移行する時期だったので一応共学。よくいる日本の女子だと思う。これを自分で望んでいたかどうかは別にして。

 

幼い頃から目立ちたがりだったのを覚えている。次女でかわいがられて育ったせいなのか、一番じゃなきゃ気が済まないような性格だった。

まあ、だからと言って世の中にはそんなワガママばかり通用するわけではなく、小学生なりに『空気を読む』ことを学び、中学生なりに『うまく自己主張する』ということを覚えた。

 

家は厳しかった。

というよりは、母が怖かったという記憶しかない。(いまはそんな風には思っていないけど)

とにかく母は怖くて、小学生時代の友達から『めぐこちゃんのお母さんは怖いから〜』みたいに思われていた。要するに、よその子も容赦なく叱っていただけある。

今になって思うのは『他のおウチのお母さんたちって甘過ぎない!?なんでそんな事も教えてあげないのかね?』と思うような、常識を疑うようなこともあったりするので、母が厳しかったことは悪くはなかったな、ということだ。

 

だが、しかし。

これは大人になって気づいたことだが、母が躾に厳しい反面、母だけではなく父も甘い部分があったのだ。

それは他のおウチよりも【物を与えて(買ってあげて)しまうこと】だ。

これは後々の私の半生に多大なる影響を与えてしまうことになる。

高校卒業〜専門学校入学。職人世界へ足を踏み入れる。

高校生の時に心を燃やすような事もなく、担任に大学進学を勧められても大学に行く意味がまったく分からず、「何の為に大学に行くんですか?」とか言って担任を論破してしまうような生徒だった。

進路に迷った私は「そうだ、手に職をつけよう!」と半ば閃きで、幼少の頃からピアノを習っていた私はピアノの調律師を目指そうと考えた。

日舞で日大芸術学部に進むことを望んでいた母はガックリしていたが、そんなことを反抗期の子供が言うことを聞くわけがない。(後に日芸には行かなくてよかった、という話になるが)

 

そんなわけで特に受験資格もいらないピアノ調律師の専門学校に進学を決めた。

調律の専門学校という名前だったが、どちらかと言うと学校というよりは職業訓練所みたいな感じだった。

高校卒業したばかりの同年代の子達もいれば、仕事を辞めて30歳になる前にやっぱりやりたい事をやる、という人たちも半数くらい。

そんな環境で学生気分の同世代の我々は、適度に調律の技術とピアノの仕組みや歴史を学び、また集中力についてややる気オンオフのスイッチの付け方、1秒間という長さを体得することもできた。

 

2年生も秋を過ぎると、卒業が近くなり気になるのがその後の就職先だ。日本人たる者、勤労の義務がある。

ところがこの専門学校は『就職先の斡旋』がなかった

今にして思えばそんなことは自分の情報収集とアタック次第で、楽器店でも工房でも探せばいいだけの話だが、がっつり日本の『就職先は学校が紹介してくれる』という常識を信じてきた20歳そこそこの若者には、そんな考えもキツい。

結果、同学年の中からは半数くらいしかピアノ関係の仕事には就かなかった。なんだか少し寂しい感じがしたのを覚えている。

かくいう私は、自分で電話帳や普及し始めたネット(この時代はまだネットはダイアルアップ!)で検索し、『3ヶ月の無給での見習い期間』を条件に、なんとか中古ピアノ修理工房へありつけたわけだ。

 

3ヶ月間の見習い期間ののち、正社員として登用されることになった。

社員といっても給料は月8万円。休日は月6日である。有給休暇も、社会保険も、失業保険もない。労働基準法で考えてしまうと立派な法律違反、とこうなってしまう。職人世界とはこういうものだ。

 

21歳初めての救急車

ピアノ工房での仕事を辞め、これから自分がどんな仕事をしたらいいのか、どんな仕事にありつけるのか。考えた末に事務系の仕事を探すことにした。

この頃にはネットでも求人が多く出るようになってきて、日々ネットサーフィンで仕事探しをした。

そこで見つけたのが派遣会社である。

とりあえず派遣会社とやらに登録してみよう〜!と近くの登録会を予約した。

なんでも無鉄砲に挑戦してみるのが、私である。

 

全くの未経験で、パソコンもMacしか触ったことがない私がありつけた事務仕事は、いわゆる【キーパンチャー】だった。航空会社の事務方である。

まだインターネットもダイアルアップ回線で『ピーピーピーキュるるるる』とかいう時代たっだので、飛行機のチケットのナンバーや旅程のようなデータも手入力の必要があったのだと思う。

お陰でテンキーの入力は今でも速い。当時は1秒間に9桁は打てたかな。

 

初めて事務の仕事にありつけて、最初の何ヶ月は意気揚々と仕事に取り組んでいた。

元々「単純作業をいかに効率的にこなすか」ということを考えながらやるのが好きなので、社員さんから重宝されるようになった。

 

部内では【派遣】【派遣から社員】【社員(出向)】という属性があり、派遣の人は社員試験を受けることが通例になっていた。

私も「そのうち社員試験とか受けようかしら」という考えに染まりつつも、「でもここの社員になってずっとここで働くのかい?給料も安いよ」という葛藤があった。

 

この航空会社で働き始めてから約1年が経とうとしていたある日の午後、当番の仕事をしていた時にお腹に違和感を感じた。

お腹がただ痛いとかいう感じではなく、歩いたりすると振動で響いて痛くなる感じ。

違和感を感じながらも仕事を終えて帰宅したが、やっぱり調子が悪かったのでそのまま寝てしまった。父にもメールをしておいた。

 

急変したのは明け方の4時半くらいだった。

お腹が痛くて痛くてたまらないのだ。痛すぎて目が醒める。お腹に激痛が走るので叫んでいたのだが、隣の部屋で寝ている父が起きないので、ほふく前進をしながら移動をし、父に救急車を頼んだ。やれやれ。

救急車で運ばれた私は、病院内の各科をたらい回し同然で診察をされ、結果『急性腹膜炎』と診断された。治療の他に原因の究明もあり、2週間の検査入院となってしまったのだ。

入院当日〜3日くらいは痛みは引かないし検査もされるしで、流石に死を覚悟した。原因が分からないので、お腹を切って洗浄するかどうするか?と聞かれた覚えもある。

結局4日目に痛みも少し引いてきたこともあり、お腹は切らずに検査を続けることになったのだが(良かった〜)。

 

入院中、元気になってくると人生について考え始めた。

「いつ死んでもおかしくないんだから、やらないで後悔するよりやって後悔したほうがいい」と。

 

自分が最高に活かせる場所を求めて〜転職女王になるまで〜

謎の腹膜炎から生還した私は、派遣社員であるにも関わらず仕事に普通に復帰させてもらえたことに感謝しつつも、

『これからもこんな風に好きか嫌いか分からない仕事を続けていくんだろうか?』という疑問を持ち始めていた。

仕事に復帰してから2ヶ月後くらいだっただろうか、「やっぱりもう一度ピアノ関係の仕事をやりたい」という考えが膨らみすぎて、上司にその意思を伝えた。

実質2回目の離職

 

元々ピアノ工房で仕事をしていたのを知っていた上司たちは、私が辞職し、またピアノの世界へ戻って仕事をすることを後押ししてくれたが、

一方で私のピアノ工房や楽器店の仕事探しは難航した。

インターネットはだいぶ普及してきていたが、ピアノ工房が求人募集を出したりすることはまだ稀な時代だ。電話帳でピアノ工房や楽器店に電話をしてみて求人があるか聞いてみたりもしたが、募集はなかった。

 

航空会社を辞職してから約1年近く、配膳で食いつなぎながらピアノ屋の仕事を探していたが、ハッキリ言って意地以外のなにものでもない。

そんなある日、私は専門学校時代の恩師にメールを送ってアドバイスをもらった。先生からはこういう返事が来た。

『ピアノ業界は今衰退しています。昔と違ってマンションに住む家庭が増え、ピアノではなくて電子ピアノが圧倒的に普及してきています、それにお子さんの数も減ってきています。

そういう事も鑑みると、めぐこさんが無理にピアノ業界に戻ろうとしなくてもいいのでは、と。

私たちが教えてきたことは調律の技術だけではないと思っています。人生の中で何にでも活かせると思いますので、ピアノ業界に関わらず他の仕事にも挑戦してみてください』

 

一気に気が楽になった。

と同時に気づいたのは、私の中で勝手に『一度口に出してしまったものはやり通さなければいけない』という一貫性とコミットメントを作ってしまい、20代の大事な1年という月日を無駄にしてしまったのだ。

せめて何か勉強しながら就活するべきだったな。

 

それから私は、

  • 給与計算(紹介予定派遣、半年間)
  • 某エステサロンの受付&機械施術(約1年、超ブラック)
  • 某下着メーカーの販売員(約2年)
  • 某セレクトショップの販売員(約1年半)

という、転職女王の名に相応しい職歴を経験してきたのである。

転職女王が奈落の底へ、何故かスピード婚

自称・転職女王にまで成り上がった私は、最後のセレクトショップの【売っても売っても賞与にも反映されない給与制度】にウンザリし、営業職に転職しようと辞職前から転職活動を始めた。

辞職前から転職活動をするというのは、転職女王ならではの学びでもある。

 

しかし時は2008年夏も終わりかけの頃。

世の中の情勢とか景気とか関心がなさ過ぎて何も分かっていなかった私は、一気に奈落の底に突き落とされてしまうことを知る由もなかった。

何が起こったのか。それは、

リーマン・ショックである。

転職活動を始めたちょうど同じ時期に、所謂【リーマン・ショック】なる世界的な金融危機が起こってしまったのだ。

そして金融危機と共に転職危機が起こってしまった。全く書類審査すら通らないどころか、求人数が一気に減ってしまったのだ。

社員どころか派遣も然り。派遣に関しては時給が300円〜400円くらい下がっていて、飲食店のアルバイトのが交通費も出るし良かったくらいだった。

 

次の仕事もなかなか決まらないまま辞職の日を迎えてしまった私だったが、手を付けないでおいた賞与でなんとか食い繋ぎ、ひとまず飲食店にアルバイトとして働くことができた。

銀座という土地柄、土日は休み。しかも週の半分は午前中のみか午後のみで、かなり生活が厳しくなっていた。

掛け持ちのバイトを探そうと面接にも行ったが、掛け持ちだとお店側の都合として合わなく、なんとか1店だけ掛け持ちバイトにありつけた。

 

今だったら、無理に掛け持ちのバイトをしなくてもメルカリで物を売ったりネットで小銭を稼いだりすればいいんでない?と考えるだろう。

しかし当時(10年前)のめぐこには、人に雇ってもらって労働力と時間を提供してお金を頂戴する』ということしか頭になく、

物を売ってお金を稼ぐとか起業するとか、そんなことは微塵も考えていなかったのだ。調べもしなかったよ。

この考え方、つまり【誰かに雇ってもらってお給料を頂戴する】というのだけがお金を稼ぐ手段ではない、というのは知っているのと知らないとでは、これからの世の中色々差が出てきてしまうだろう。

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たまに携帯の通話料金の引き落とされてなくて、携帯が止まったりするようなギリギリの生活を送っていた私だが、当時付き合っていた彼と結婚することになった。今の旦那だ。

旦那と結婚してもいいかなと思った決め手は、携帯が止まっていたから「これで携帯代払いなさい!」と1万円を渡してくれたからである。ここポイント。

『え、めぐこってクズじゃん!!』という声も聞こえてきそうだが、

結婚して一家の大黒柱となるのだから、これくらいの気持ちがないとダメですよ。男尊女卑ではなく。これは生物学の話である。

 

そんなこんなで晴れて結婚をし、めぐこは社宅妻となった。

社宅には色々面倒な人間関係の都合上、私は専業主婦という立場を強いられることになったのだ。

家のことをやるのは嫌いではないし、一日中家にいても勉強したり日曜大工をしたり、やりたい事は山ほどあるので苦ではなかった。

ただ一つ苦行だったのは『社宅の人間関係』だけ。

その社宅の人間関係から逃げるように、我が家はマイホームを購入することになったのだ。社宅妻卒業である。

約半年間のアメリカでの生活、そして起業へ。。。

社宅妻を卒業し、猫たんをお迎えしマイホームライフを楽しんでいたある日のこと。

旦那が勤務中に珍しく電話をかけてきた。

何かと思えば「嬉しいお知らせがあります。アメリカに行けることになりました」という報告だった。

旦那の会社は年に1回、アメリカにある某企業に研修に行ける人がいる。それに選ばれたということなのだ。

 

渡米まで準備期間が3ヶ月も無く、ばったばたでアメリカに出発した。

 

アメリカでの生活中に、私は英語の勉強もしつつもBUYMAに目を付けた。これが私の物販ビジネスの始まりである。

なんとかアメリカ滞在中にBUYMAで売り上げをあげようと日々リサーチをし、店舗に出向き写真撮影もして、商品登録をしてから約2週間後。

なんと商品が売れたのだ。

BUYMAでの売れそうな商品のピックアップの仕方のコツを掴んだ私は、1ヶ月半で利益を10万円ほど出し、日本に帰国した。

 

物販というのは今はメルカリやラクマなんかもあり、実に取り組みやすいお小遣い稼ぎの方法だ。

副業で少しでも足しにしたい人にも、何かを創作していて売りたい人にも、今の時代ならすぐ始められる。

そうであっても、私の周りでは実際に始めている人が少ないのが現状だ。

 

社会保険料が増えたり消費税増税であったり、このご時世会社からもらえるお給金だけじゃ心の余裕が無くなってしまう。

そんな世知辛い時代をもっともっと楽しむためにも、副業でもなんでも【自分で稼げる力】というものを実感してもらい、広めていきたいと思っているのだ。

 

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私の人生、失敗ばかりであった。

と思っていたけれど、振り返ってみたらそうでもないかな。ただ、人よりも多く挑戦してみたってだけで。

これからもたくさん挑戦していく所存であります。

 

終わり!!!ここまで読んでくれてセンキュー!!

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